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室町時代中期の1455年、享徳の乱で千葉氏内部での

室町時代中期の1455年、享徳の乱で千葉氏内部での分裂が起り、嫡流は事実上滅亡する。しかも筆頭家老である原氏の勢力が千葉氏の当主より強大化することになる。これに対して室町幕府の命を受けた太田道灌や東常縁(千葉氏支流・東氏出身)らは、嫡流の千葉胤賢の遺児実胤と自胤を擁立し下総に侵攻して千葉氏を奪った馬加氏を滅ぼす事に成功する。だが、原氏をはじめとする家臣団は古河公方の支援を受けて、馬加康胤の庶子とされる千葉輔胤を擁立し、領国内を掌握したために討伐軍は目的を果たせずに下総から撤退する。以降千葉氏は本拠地を現在の千葉市から佐倉市、酒々井町の一帯に移し、衰退の一途をたどることとなる。

千葉胤賢と千葉輔胤の系統は互いに千葉氏の宗家を名乗った。便宜上、前者を武蔵千葉氏、後者を下総千葉氏と呼称する事がある。だが、輔胤の系統が古河公方の支援を受けて下総本国を掌握していったのに対して、胤賢らを支援してきた室町幕府が古河公方との和議に踏み切って享徳の乱による古河公方主導の再編を黙認したために武蔵千葉氏が下総へ帰還する望みは失われ、石浜城(現在の浅草)を中心とした小領主に転落する事になった。以後下総千葉氏の当主が千葉氏歴代当主として系譜に記載される事になる。

戦国時代に入ると、小弓公方足利義明や安房の里見義堯の侵攻を受けるようになる。衰退してゆく千葉氏には独力で里見氏に対抗するような力はもはや無く、北条氏康と姻戚関係を結ぶことで、後北条氏の支援をもとに里見氏に対抗するしかなかった。しかしこのため、千葉氏の支配領土である下総は、実質的に後北条氏の支配圏として牛耳られることとなる。

千葉氏内部においても、第26代当主を継いだ千葉親胤の時代には、原胤清によって暗殺されてしまい、続いて第29代当主を継いだ千葉邦胤が1585年に家臣の手で暗殺されるなどの混乱が続き、1590年、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡したことにより、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉氏は滅亡した。重胤は徳川家康に仕えたが、後にそれも失い浪人となった。他には仙台藩や一関藩に仕えた者もいる。
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千葉氏一族は奥州でも活躍した。改姓した相馬氏、葛西氏は特に有名であるが、他の大族としては薄衣、長坂、大原氏らが葛西氏重臣として活躍、他大崎氏、伊達氏に仕えた一族もあり敵味方に分かれて戦った。千葉氏の名乗りのまま戦国時代に突入した分枝もある。 しかし本家に遅れること5年、1590年のいわゆる奥州仕置と葛西大崎一揆、九戸一揆の過程で葛西氏は改易、主だった者は相次いで戦死、或いは一揆首謀者として処刑、改易され、葛西氏ら奥州の千葉一族は相馬氏などを除いて歴史の表舞台から姿を消した。相馬氏は近代大名として明治維新を迎えた。

浪人となった一族は仕官を求めて東日本各地へ離散した。帰農した者も多く、奥州仕置で他の没落した諸氏と同様、奥州各地で庄屋、豪農などの上級農民層を形成した。

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2009年06月06日 09:10に投稿されたエントリーのページです。

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